柿生という町①
ホームページでも自己紹介文に記載しておりますが、私は幼少期より柿生の地でこの町とともに過ごしてき地元っ子であります。おかげさまで親戚や友人、ご近所の方々など多くの「柿生の民」に支えられてクリニックは順調な船出ができました。
ここで少し柿生という町を振り返らせていただこうと思います。
かつては柿生駅も4番ホームまであり、駅員さんが切符切りを常にカチカチ鳴らしながら改札口にいたのを覚えています。電話ボックスの横には売店があり、お菓子があふれていて「将来は売店のおばちゃんになりたい」と母に言ったことがあったそうです。
歌手の19(ジューク)さんの「小田急柿生」という歌にも出てくる駅の目の前にあった八百屋さんでは、おつりが入っている籠が天井からぶら下がっており、小さかった私は中を一度覗いてみたいなと思っていました。
柿生小学校時代は建て替えられる前のとても古い校舎でしたが、形を変えた今も息子の授業参観や運動会で伺うと(忙しい事を理由に実際あまり行っておりませんが…)当時の思い出が蘇ります。岡上小学校が設立され多くの同級生が一気に転校したときは大号泣したのを覚えています。また、当時は自転車で友人と駄菓子屋やおもちゃ屋を巡ったり、美山台公園でターザンをして遊んだりしていました。
柿生は周辺の町に比べて自然も多く、両親に連れられて裏山を抜け修廣寺へよくお参りに連れて行ってもらい、我が家の墓前に手を合わせていました。当時父から「長男だから墓守になるんだぞ」と言われて迷惑な話だなと感じていましたが、20代で父を亡くしてから十数年が経ち、今では息子に同じ言葉を言っていました。ここ柿生は母の地元であり、母の両親のお墓も隣接しています。両親がいたから今の自分があり、今度は子供たちへと伝えていくべきことがあると、先人たちを前に背筋がピンと伸び気持ちも清らかになります。
この世に生まれてきた命の偉大さと、いつか亡くなる時が来てその時に次の世代へと受け継いでいく「命のリレー」が大切であることを、私はこれからも自分の家族だけでなく、患者様として、あるいは患者様家族として関わっていくすべての方々と共有していきたいと強く思っています。若くして父から引き継いだ命のバトンを、当時若いなりに考えて行動に移し、微力ながら柿生の医療を支える側として還元できるようになったことは私だけでは成しえなかったことです。改めて私の家族をはじめ応援していただいた全ての方々に感謝を申し上げます。
柿生の話をするつもりが、結局は私の柿生魂を語ってしまいました。そんな院長がいる「にもり内科クリニック」を今後ともよろしくお願いいたします。